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夜のオネエサン@文化系

2024.05.17 公開 ツイート

吉原で炎上する時代であっても~大吉原展~ 鈴木涼美

年をとると紅葉とか景色とかが好きになって謎に山歩きとかし出すというのは嘘ではないというか、筋金入り運動嫌いの私はさすがに登山とかはしていないけれど、仲良しの漫画家さんは四十過ぎてやたらと山に登り出したし、私だって多少は「京都出張ならどうせならもみじのシーズンがいいかな」とか「今年は上野の桜は見れないまま散っちゃって寂しいな」くらいは思う。

女子高生の頃はもとより二十二、三歳の頃も一切そんなことは考えなかった。鎌倉の実家では紅葉→その後の落ち葉やばい→落ち葉の影からムカデが大量発生、という印象しかなかったし、通学路では銀杏はギンナンを踏むと靴から一生異臭がするし、桜並木は毛虫が落ちてくるしで、足早に通り抜けるだけだった。

 

だからといって女子高生や二十二、三歳の頃に強く惹かれたものに、今現在の私が魅力を感じないかと言えばそうではなく、豪華絢爛な装飾も派手なドレスも好きだし、歓楽街のネオンも娼婦たちの艶やかな化粧も全部今も好き。ただ、以前はひたすら光に集まる虫みたいに、惹かれるままに近づいてどんどん中に入って中心に触れたくてさらに進んで焼かれかけていたけれど、年齢とともに臆病になって、惹かれても一定以上近づけずに外からぼんやり眺めることが多くはなった。色や身体を切り売りさせる街についてばかり書いているのは、いわばそうやって遠心力で弾かれてその中心部にはいられなくなった私の未練と郷愁みたいなものだ。彼女たちは眺めることは許してくれるが、部外者となった私が手で実際に触れることはできない。

浮世絵でも小説でもお歌でも、見ていると浮世絵師や作家たちもきっとそうで、ぐっと近づいてその核に触れることは出来ない崇高な娼婦たちへの憧れと未練が筆を活発に動かしたのではないかと思える。特に、自由意志など一つも介在せずに身売りを余儀なくされていた時代の遊郭は、その時代の者だけでなく、現代を生きる者にとっても何か得も言われぬ魅力を放っているようで、映画や漫画のモチーフとしては廃ることなく映え続けている。

日本に限らずフランスでもどこでも制度自体が非人道的な時代であればあるほど、娼館とかそういうものは怪しく魅惑的に回想されるところはあるのかもしれないけど、いずれにせよ江戸・吉原はその衣装や芸事も含めて人の興味を掻き立てる。今のソープ街としての吉原は、その時代より数倍人権的にも衛生的にもきれいなものだが、江戸時代のそこに比べれば描いてみたいという人は少ないのか、おしゃれ映画や漫画で百年前のフランスの娼館や江戸の遊郭が描かれることはあってもソープが登場するのは稀だ。

と、会期も残り少なくなった東京藝大美術館「大吉原展」にできた大行列を見て思った。上野にモナリザが来たみたいな行列だった。客層も実に多様で、高齢のカップルなんかもいれば若い女性二人だとか、美大生風の面倒くさそうな男ひとりというのもいる。閉館時間になってもショップ前の行列は絶えず、図録やポストカードを持って並ぶ人であふれかえっていた。

国内外から集めた吉原に関連する美術品は二百を超え、それを吉原の文化や生活に関する解説とともに展示する。特に上階につくられた吉原の町を再現した展示室には力が込められ、浮世絵作品や模型を見ながら季節ごとに町をあげて執り行われた催事を疑似体験できる。吉原といえば小悪魔ageha顔負けのファッションの中心地でもあったわけで、流行を送り出した着物の柄や髪結いは、時代を超え遊女ではない女たちをも魅了していた。

道中、つまりパレードでありファッションショーである客の送迎を描いた浮世絵は多く存在するが、そこに描かれる遊女の表情が誇らしげであるのも、町をあげた花見の行事が楽しげであるのも、それはきっと表面的な偽りではないのだと思う。囚われの身である遊女たちが、押し付けられた立場の中だからこそ人が発し得る最大限の光を放つ事実を、私は何となくわかる。女が人権を奪われ、モノのように取引される時に持ち得る強烈な尊厳なら知っている。現在の感覚で人のように扱われなかったとしても、その姿は最も人としての誇りに充ちている。実際にその場に忍び込めば、浮世絵に描かれない醜くおぞましい町の表情が見えるのだとしても。

中心的な役割が娼婦の接客だったとしても、遊郭が日本文化の集積地だったことにはかわりない。展示では書や和歌や巻紙の手紙、琴や茶の湯、着物に日本髪など当時の風俗や芸能を知るための片鱗がちりばめられている。反面、目を覆うような折檻や場末の女郎の姿もまた、実際に持っていた一面として目立たないながらも描かれる(このあたり田中優子『遊郭と日本人』などにわかりやすく網羅されているのでぜひご一読)。

展示室が人の熱気が集まったようになるのは、一つはもう少しましな時代に生まれた身としては想像するしかないその歴史が幻想的にも思えるからで、もう一つには遊女と似たような囚われの感覚が今も女の人生のどこかに存在しているからかもしれない。

だとしたら展示の最初に「人権侵害・女性虐待にほかならず、現在では許されない、二度とこの世に出現してはならない制度です」なんていう野暮なことを掲げなくてもよいと個人的には思うが、ホームページを見返してみると、当初の広報の表現で配慮が足りずさまざまな意見がありました的なエクスキューズが書いてあるので、色々なことを思う人がいるのだろう。私は奴隷制度を容認しないことと奴隷制度なしでは存在し得ない人の輝きを描くことは別に矛盾せず共存すると思うし、今の歌舞伎町や吉原が安全だけどいまいち無骨なことを思うと、そもそもこんなにも美しい文化は人権侵害なしでは成立し得なかった不都合な真実をも我々は噛み締めなきゃいけない。大体、今の時代のいくつもの感覚が、二百年後に許されるわけもなく、その時誇り高き我々の生き様が野暮なエクスキューズとともに紹介されたら、私だったらちょっと嫌だ。

関連書籍

上野千鶴子/鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』

「上野さんは、なぜ男に絶望せずにいられるのですか」? 女の新しい道を作った稀代のフェミニストと、その道で女の自由を満喫した気鋭の作家が限界まできた男と女の構造を率直に、真摯に、大胆に、解体する。 「エロス資本」「母と娘」「恋愛とセックス」「結婚」「承認欲求」「能力」「仕事」「自立」「連帯」「フェミニズム」「自由」「男」――崖っぷちの現実から、希望を見出す、手加減なしの言葉の応酬!

鈴木涼美『愛と子宮に花束を 〜夜のオネエサンの母娘論〜』

「あなたのことが許せないのは、 あなたが私が愛して愛して愛してやまない娘の 身体や心を傷つけることを平気でするから」 母はそう言い続けて、この世を去った――。 愛しているがゆえに疎ましい。 母と娘の関係は、いつの時代もこじれ気味なもの。 ましてや、キャバクラや風俗、AV嬢など、 「夜のオネエサン」とその母の関係は、 こじれ加減に磨きがかかります。 「東大大学院修了、元日経新聞記者、キャバ嬢・AV経験あり」 そんな著者の母は、「私はあなたが詐欺で捕まってもテロで捕まっても 全力で味方するけど、AV女優になったら味方はできない」と、 娘を決して許さないまま愛し続けて、息を引き取りました。 そんな母を看病し、最期を看取る日々のなかで綴られた 自身の親子関係や、夜のオネエサンたちの家族模様。 エッジが立っててキュートでエッチで切ない 娘も息子もお母さんもお父さんも必読のエッセイ26編です。

鈴木涼美『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』

まっとうな彼氏がいて、ちゃんとした仕事があり、昼の世界の私は間違いなく幸せ。でも、それだけじゃ退屈で、おカネをもらって愛され、おカネを払って愛する、夜の世界へ出ていかずにはいられない―「十分満たされているのに、全然満たされていない」引き裂かれた欲望を抱え、「キラキラ」を探して生きる現代の女子たちを、鮮やかに描く。

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夜のオネエサンが帰ってきた! 今度のオネエサンは文化系。映画やドラマ、本など、旬のエンタメを糸口に、半径1メートル圏内の恋愛・仕事話から人生の深淵まで、めくるめく文体で語り尽くします。

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鈴木涼美

1983年東京都生まれ。蟹座。2009年、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。著書『AV女優の社会学』(青土社/13年6月刊)は、小熊英二さん&北田暁大さん強力推薦、「紀伊國屋じんぶん大賞2013 読者とえらぶ人文書ベスト30」にもランクインし話題に。夜のおねえさんから転じて昼のおねえさんになるも、いまいちうまくいってはいない。

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